平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群とは?世界遺産についての解説

平泉の世界遺産構成資産
構成資産 説明 指定
中尊寺 奥州藤原氏の初代清衡が建立した寺院。国宝の金色堂や重要文化財の経蔵など、貴重な文化財を数多く所蔵している。 特別史跡
毛越寺 奥州藤原氏二代基衡が建立した寺院。平安時代の様式を伝える浄土庭園が残されている。 特別史跡・特別名勝
観自在王院跡 奥州藤原氏二代基衡の妻によって建立された寺院の跡。現在は庭園のみが復元されている。 特別史跡・名勝
無量光院跡 奥州藤原氏三代秀衡が建立した寺院の跡。宇治の平等院鳳凰堂を模して建てられたとされる。 特別史跡
金鶏山 平泉の空間設計において重要な役割を担った山。山頂からは平泉の街並みを一望できる。 史跡

1. 平泉の歴史と背景

要約

平泉という地名の由来

平泉は、日本の東北地方、岩手県南西部(古代の陸奥国磐井郡)にある古くからの地名であり、現在の岩手県西磐井郡平泉町の中心部にあたる。この地域一帯には平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコの世界遺産リストに登録された。日本の世界遺産の中では12番目に登録された文化遺産であり、東北地方では初の世界文化遺産となった。

奥州の入り口は白河関(福島県。北緯37度)、北限は津軽半島の外ヶ浜(青森県。北緯41度)であるが、この2地点のちょうど中間に位置するのが平泉(北緯39度)である。北から旅しても南から旅しても平泉あたりで行程上の中日となり、奥州全体に仏国土の加護を行き渡らせるに相応しい立地でもあった。

平泉は北を衣川、東を北上川、南を磐井川に囲まれた地域である。この地を11世紀末から12世紀にかけて約90年間拠点としたのが、藤原清衡に始まる奥州藤原氏である。「平泉」という地名を史料的に確認できる最古の例は『吾妻鏡』の文治5年(1189年)の項目で、時期的に重なっている。その語源は、泉が豊富だったという地形的要因に基づく説がある一方で、仏教的な平和希求の理念に基づくという説もある。

平泉の地名の由来
内容
地形的要因 泉が豊富だったことから
仏教的な平和希求 仏教的な平和を希求する理念に基づく

奥州藤原氏の台頭と平泉の都市形成

清衡は康和年間に平泉に本拠地を移し、政庁となる「平泉館」(ひらいずみのたち、現 柳之御所遺跡)を建造した。さらに中尊寺を構成する大伽藍群を建立していったが、この時点の平泉にはその2つの建造物群しかなく、都市機能は衣川を挟んだ対岸の地区にあった。

中尊寺金色堂建立の頃を境に建造物は南へと伸長していくようになり、奥州藤原氏2代目当主の基衡の時代には、平泉館での新しい中心地となる大型建物の新築、毛越寺の建立やそれに合わせた東西大路の整備などが行われ、都市機能が着実に整備されていった。

3代目の秀衡の時代には、平泉館の大改築、無量光院の建立やそれにともなう周囲での新市街の形成など、平泉全体の都市景観が大きく様変わりした。初代から3代のそうした変化を、順に「山平泉」「里平泉」「都市平泉」と位置付ける者もいる。

奥州藤原氏の歴代当主
当主 主な功績
初代 藤原清衡 平泉館の建設、中尊寺の建立
二代 藤原基衡 平泉館の拡張、毛越寺の建立
三代 藤原秀衡 平泉館の大改築、無量光院の建立
四代 藤原泰衡 源頼朝との戦いで滅亡

奥州藤原氏の滅亡と平泉のその後

奥州藤原氏は4代目の泰衡の時に源頼朝によって滅ぼされ、平泉に込められた独自の仏教理念が引き継がれることはなかったが、平泉の建造物群については保護された。それに関連し、頼朝は平泉陥落直後(1189年)に中尊寺や毛越寺の僧侶に対し、報告書の作成と提出を命じた。それが『吾妻鏡』文治5年9月17日条に収録された「寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん)で、当時の平泉を窺い知る上での一級史料と評価されている。

後の時代の火災などによって失われた建造物群も少なくないが、昭和から平成にかけての発掘調査などによって、寺院跡などが発見・復元されるようになっている。

まとめ

平泉は、奥州藤原氏が約90年間にわたって拠点とした地であり、その繁栄と衰退、そして現代における世界遺産登録に至るまで、歴史的な変遷を遂げてきた。平泉という地名は、泉が豊富だったという地形的特徴や、仏教的な平和希求の理念を表すなど、様々な解釈がなされている。

奥州藤原氏は、初代清衡から3代秀衡にかけて、平泉館や中尊寺などの建造物を次々と建立し、平泉は政治・行政の中心地として発展していった。しかし、4代目の泰衡の時代に源頼朝によって滅ぼされ、平泉の繁栄は終焉を迎える。

その後、平泉は長い年月を経て、火災や自然災害に見舞われ、多くの建造物が失われた。しかし、近年では発掘調査や復元作業が進められ、当時の平泉の姿が少しずつ明らかになってきている。

平泉は、奥州藤原氏の栄華と滅亡、そして現代における世界遺産登録という歴史を刻み、現在もなお人々を魅了する場所である。

2. 仏教建築の特徴と意義

要約

浄土思想と平泉の仏教

浄土思想は、阿弥陀如来を信仰し、西方極楽浄土に往生することを目指す思想である。日本では特に平安末期の末法思想の流行や、それを裏付けるかのように相次いだ戦乱と相俟って、人々の間に浸透していった。ことに平安末期の有力者たちへの浸透は、多数の来迎図の作成や阿弥陀堂の建立、浄土式庭園の作庭などに結びついた。浄土式庭園は、建造物群、池、橋などが織りなす景観を浄土と関連付け、その存在を視覚的・体感的に認識させようとする営為である。

奥州藤原氏の初代清衡も仏教に深く傾倒し、相次ぐ戦乱の犠牲者たちが敵味方の区分なく浄土に往生できるように、中尊寺を建立した。その中で彼が最初に建立したのは多宝堂(最初院)だが、そこで採用した様式は、京都などで一般的だった大日如来に見立てる密教系の様式ではなく、東アジアで主流となっていた様式、すなわち法華経に題材を採った「釈迦多宝二仏並座」の様式であった。この点は平泉の仏教が備えていた自立性と国際性を示すものとされる。

また、「釈迦多宝二仏並座」の多宝堂は宇宙の中心を象徴するものであり、彼が幹線道路である「奥大道」沿いに笠卒塔婆や伽藍を整備しようとしたという伝承とともに、清衡が東北日本にある種の「仏教王国」を築こうとした意図の表れとも指摘されている。

浄土思想と平泉の仏教
思想 内容
浄土思想 阿弥陀如来を信仰し、西方極楽浄土に往生することを目指す思想
末法思想 仏の力が衰退し、世の中が混乱するという思想
釈迦多宝二仏並座 法華経に題材を採った仏像の配置様式

平泉における浄土思想の発展

この時点での浄土思想は、平泉における仏教思想の中枢を占めてはいなかったが、3代秀衡の無量光院建立に至って、浄土教が中心的地位を占めるようになった。その過程で浄土思想と深く結びつく建造物や庭園群が建立されるとともに、平泉は仏教色の強い大都市として整備されていった。世界遺産の主要部分はそれらの寺院(跡)の数々によって構成されており、かつて平泉に展開された仏教的な平等主義と平和主義の理想を今に伝えている。

平泉は「石見銀山遺跡とその文化的景観」や「紀伊山地の霊場と参詣道」とともに、2001年に世界遺産の暫定リストに掲載された。当初の登録名は「平泉の文化遺産」で、京都に影響されつつも、それと比肩しうる独自性を持つ優れた地方文化を発展させていったことや、かつての重要な政治拠点でありながら、奥州藤原氏の滅亡とともにその重要性を失い、開発にさらされることなく当時の姿を保存している点が評価された。

2006年7月の文化審議会で世界遺産に推薦されることが決定し、登録名が「平泉 – 浄土思想に関連する文化的景観」と変更された。この名称は同年9月の文化庁による再検討の結果、「平泉 – 浄土思想を基調とする文化的景観」と微調整され、2006年12月26日に最初の推薦書がパリの世界遺産センターに提出された。

平泉における浄土思想の発展
時代 主な出来事
清衡の時代 中尊寺の建立
基衡の時代 毛越寺の建立
秀衡の時代 無量光院の建立
泰衡の時代 奥州藤原氏の滅亡

世界遺産登録への道のり

日本政府は以下の世界遺産登録基準に基づいて推薦した。具体的には、基準 (3) は浄土思想に基づく独自の文化的伝統の優れた例証である点に、基準 (4) は浄土思想を体現した仏教建造物群や庭園群に、基準 (5) は骨寺荘園遺跡周辺の農村景観が当時の絵図そのままに残されている稀有な例であることに、基準 (6) は平泉の文化遺産が当時の浄土思想を伝えるものである点に、それぞれ適用できるとしていた。

2007年8月27日から29日には、ICOMOS の専門家で、スリランカ人の美術史家・考古学者であるジャガス・ウイーラシンハが現地を視察した。ICOMOS はその視察結果も踏まえて2008年5月に「登録延期」を勧告した。その勧告においては、保全状況などに問題がないとされた一方で、日本側が主張した4つの基準の適用については、全て証明が不十分であるとされ、中国や韓国との比較研究も不十分とされた。同時に、むしろ寺院などの建築様式の独自性とその影響関係を強調し、構成資産を整理したうえで、基準 (2) を適用すべきではないかとの意見も付された。

2008年7月の第32回世界遺産委員会では、日本は前年に「登録延期」勧告を覆して「石見銀山遺跡とその文化的景観」の登録を果たした時と同じように、積極的な働きかけを行なった。そのときに示した補足説明では、平泉の豊かな黄金が「黄金の国ジパング」伝説のきっかけになったとされることや、戦没者の魂を敵味方で区別をせずに浄土に導こうとした中尊寺、およびその延長線上にある平泉の造営意図が、ユネスコ憲章の精神にも通じることなどを示し、逆転での登録を目指した。しかし、 ICOMOS の勧告を覆すには至らず、「登録延期」と決議された。

世界遺産登録基準
基準 内容
基準(ii) 仏教・浄土思想の伝播・交流
基準(iv) 12世紀日本の仏教の特質を強く反映した建築・庭園の類型
基準(vi) 仏教とともに日本に伝来した浄土思想の顕著な普遍的意義

まとめ

平泉の仏教建築は、浄土思想という仏教の思想を基盤とし、中国や朝鮮半島から伝わった仏教文化を独自に発展させたものである。特に、奥州藤原氏の初代清衡が建立した中尊寺は、戦乱の犠牲者を敵味方関係なく浄土に導くという理念のもとに建立された。

平泉の仏教建築は、浄土思想を空間的に表現したものであり、その建築様式や庭園は、当時の社会状況や思想を反映している。また、平泉の仏教建築は、日本の仏教文化の発展に大きな影響を与えた。

平泉の世界遺産登録は、平泉の仏教建築の価値を世界的に認めさせただけでなく、日本の仏教文化の重要性を再認識させる契機となった。

平泉の仏教建築は、歴史、文化、宗教、芸術など、様々な側面から学ぶことができる貴重な遺産である。

3. 庭園文化の魅力と歴史

要約

浄土庭園の概念と特徴

浄土庭園は、仏教の浄土思想に基づいて造られた庭園である。浄土思想は、阿弥陀如来を信仰し、西方極楽浄土に往生することを目指す思想であり、平安時代末期には末法思想の流行とともに、人々の間で広く浸透していった。浄土庭園は、池、石、木などの自然素材を用いて、極楽浄土の風景を表現することを目指している。

浄土庭園の特徴としては、池を中心とした構成、池に浮かぶ島や橋、石組み、借景などが挙げられる。池は、極楽浄土の蓮池を象徴し、島は、極楽浄土の島々を象徴している。石組みは、極楽浄土の岩山を象徴し、借景は、極楽浄土の風景を借景として取り込むことで、庭園全体の景観をより美しく、幻想的にしている。

浄土庭園は、単なる美しい風景を楽しむだけでなく、極楽浄土への憧憬や、死後の世界への不安を和らげる役割も担っていたと考えられている。

浄土庭園の特徴
要素 内容
極楽浄土の蓮池を象徴
極楽浄土の島々を象徴
石組み 極楽浄土の岩山を象徴
借景 極楽浄土の風景を借景として取り込む

平泉における浄土庭園

平泉には、奥州藤原氏が築いた浄土思想に基づく都市として、数々の浄土庭園が存在した。中でも、毛越寺庭園は、平安時代の様式をそのまま残すもので、特に遣水の遺構は平安時代の様式を伝える唯一のものであり、その規模の大きさとともに特筆されている。

観自在王院跡の庭園は、毛越寺庭園に比べ、優美ではあるものの簡素な意匠であることが指摘されている。無量光院跡の庭園は、金鶏山を借景として、西方極楽浄土を表現した庭園である。

平泉の浄土庭園は、それぞれに特徴を持ちながらも、共通して、自然と調和し、極楽浄土の風景を表現している。

平泉の浄土庭園
寺院 庭園の特徴
毛越寺 平安時代の様式を伝える、遣水の遺構が特徴
観自在王院跡 毛越寺庭園に比べ、簡素な意匠
無量光院跡 金鶏山を借景とした、西方極楽浄土を表現した庭園

平泉の庭園文化の継承

平泉の浄土庭園は、長い年月を経て、多くの建造物が失われたが、庭園は、その構造や意匠が現在も残されている。また、平泉の庭園文化は、現代においても、様々な形で継承されている。

例えば、毛越寺では、毎年5月に行われる「曲水の宴」という行事が行われている。これは、平安時代の貴族が、遣水を舞台に、和歌を詠みながら酒を酌み交わした宴を再現したものである。

平泉の庭園文化は、歴史と自然が融合した、独特の文化であり、現代においても、人々に癒しや感動を与え続けている。

まとめ

平泉の庭園文化は、浄土思想に基づいた庭園造りの伝統を受け継ぎ、自然と調和した美しい景観を創出してきた。毛越寺庭園や観自在王院跡の庭園は、平安時代の様式を伝える貴重な遺構であり、無量光院跡の庭園は、金鶏山を借景とした壮大な浄土庭園である。

平泉の庭園文化は、現代においても、曲水の宴などの伝統行事や、庭園の保存・活用などを通じて、継承されている。

平泉の庭園は、歴史と自然が融合した、独特の文化であり、人々に癒しや感動を与え続けている。

4. 平泉の重要な考古学的遺跡群

要約

中尊寺

中尊寺は、平泉町にある天台宗東北大本山である。国宝の金色堂、重要文化財の経蔵などを含み、境内は国の特別史跡に指定されている。

寺伝によれば開山は9世紀の円仁で、中尊寺の寺号は清和天皇より下賜されたものという。ただし、中尊寺の寺観が整ったのは、12世紀の藤原清衡による伽藍造営時である。清衡は前九年の役で父と安倍一族、後三年の役で弟など相次いで家族を亡くしたこともあり、敵味方を区別せずに戦没者の魂を浄土へ導くことと、東北に優れた仏教文化を根付かせることを目指し伽藍を建立した。

清衡は12世紀初頭に多宝堂(最初院)を建立したのを皮切りに、多くの建造物群からなる大伽藍を建立した。二階大堂という巨大な堂宇は後に鎌倉の永福寺のモデルにもなったが、それらの建造物群は1337年の火災であらかた焼失した。金色堂は当時の姿のものが残っているが、本堂は1909年に再建されたものである。

中尊寺の主な建造物
建造物 説明 指定
金色堂 藤原氏の霊廟。堂内外の全面に金箔を張り、華麗な装飾が施されている。 国宝
経蔵 重要文化財の写経群を納めていた建造物。 重要文化財
大池伽藍跡 中尊寺の伽藍跡。 特別史跡

毛越寺

毛越寺は平泉町の寺院である。1226年の火災で多くの伽藍が失われ、1573年に完全に焼失した。そのため、当時の本堂は残っていないが、浄土式庭園は特別名勝に、境内は特別史跡に指定されている。特別史跡と特別名勝の二重指定は、国内には8例しかない。

開山は円仁と伝えられるが、再興したのは藤原基衡で、当時としては最大級の規模を誇る寺院であった。『吾妻鏡』の「寺塔已下注文」によれば、中尊寺が「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」に対し、毛越寺は「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」とされていた。

現在残る浄土式庭園は平安時代の様式をそのまま残すもので、特に遣水の遺構は平安時代の様式を伝える唯一のものであり、その規模の大きさとともに特筆されている。

毛越寺の主な建造物
建造物 説明 指定
浄土庭園 平安時代の様式を伝える、遣水の遺構が特徴。 特別名勝
常行堂 江戸中期に再建された堂宇。 重要文化財

観自在王院跡

観自在王院跡は、平泉町に残る遺跡で、名勝に指定されている。観自在王院は藤原基衡の妻によって建立された寺院だが、1573年に焼失した。昭和時代の二度にわたる発掘調査(1954年 – 1956年、1972年 – 1977年)と、修復事業(1973年 – 1978年)によって、当時の姿を偲ばせる庭園が復元された。毛越寺とは南北道路を隔てて隣接しているが、その毛越寺の庭園に比べ、優美ではあるものの簡素な意匠であることが指摘されている。

現在も基衡の妻の命日である5月4日には、その死を悼んで始まったという「哭き祭り」(なきまつり)という祭事が行われている。

観自在王院跡の主な建造物
建造物 説明 指定
庭園 発掘調査によって復元された庭園。 名勝

まとめ

平泉には、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡など、奥州藤原氏が建立した寺院や庭園の遺跡が数多く残されている。これらの遺跡は、当時の平泉が、浄土思想に基づいた都市であったことを物語っている。

中尊寺は、奥州藤原氏の初代清衡が建立した寺院であり、国宝の金色堂や重要文化財の経蔵など、貴重な文化財を数多く所蔵している。毛越寺は、藤原氏二代基衡が建立した寺院であり、平安時代の様式を伝える浄土庭園が残されている。

観自在王院跡は、藤原氏二代基衡の妻によって建立された寺院であり、現在は庭園のみが復元されている。無量光院跡は、藤原氏三代秀衡が建立した寺院であり、宇治の平等院鳳凰堂を模して建てられたとされる。

これらの遺跡は、発掘調査や復元作業によって、少しずつその姿を明らかにされつつあり、平泉の歴史と文化を伝える貴重な資料となっている。

5. 世界遺産登録の意義と影響

要約

世界遺産登録の背景

平泉は、2001年に世界遺産の暫定リストに掲載され、2006年に世界遺産に推薦された。当初の登録名は「平泉の文化遺産」であったが、2008年にICOMOSから「登録延期」の勧告を受けた。

ICOMOSは、平泉の文化遺産が、浄土思想に基づく独自の文化的伝統の優れた例証であること、浄土思想を体現した仏教建造物群や庭園群であること、骨寺荘園遺跡周辺の農村景観が当時の絵図そのままに残されている稀有な例であることなどを評価していたが、基準の適用については証明が不十分であると指摘した。

日本政府は、ICOMOSの勧告を受け、構成資産を整理し、基準(2)に基づく推薦に切り替えることを決めた。そのため、登録名を「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」と変更し、ICOMOSから除外すべきと指摘されていた達谷窟、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡、骨寺村荘園遺跡の4件の除外を決め、残る6件の資産で再構成することになった。

世界遺産登録の経緯
主な出来事
2001年 世界遺産の暫定リストに掲載
2006年 世界遺産に推薦
2008年 ICOMOSから登録延期勧告
2011年 世界遺産に登録

世界遺産登録後の平泉

平泉は、2011年6月26日(現地時間:6月25日)に世界遺産リストへの登録が決議された。登録名は「考古学的遺跡群」(Archaeological Sites / sites archéologiques) は審議の結果残されたものの、構成資産から柳之御所遺跡が除外されることは避けられなかった。

登録を受けて岩手県知事の達増拓也は、世界遺産委員会の場でスピーチを行った。その中では、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から3ヶ月あまりという時期に登録されたことの意義と感謝が表明されている。

同年7月3日には中尊寺で「平泉世界文化遺産登録、東北復興祈願金色堂参拝」が行われ、そこで達増拓也により「東北復興平泉宣言」が発表された。これは世界遺産委員会でのスピーチと同じように、平泉創建の理念が東北復興の精神的支柱となることを、復興に向けた決意や支援への感謝とともに示したものである。

世界遺産登録の影響

平泉の世界遺産登録は、平泉の観光客増加や地域経済の活性化に大きく貢献した。また、平泉の文化遺産の価値を世界に知らしめ、日本の文化遺産に対する関心を高める効果もあった。

一方で、観光客増加による環境問題や、文化遺産の保全問題など、新たな課題も発生している。平泉町では、これらの課題に対処するため、様々な取り組みを行っている。

まとめ

平泉の世界遺産登録は、平泉の文化遺産の価値を世界的に認めさせただけでなく、日本の文化遺産の重要性を再認識させる契機となった。

世界遺産登録は、平泉の観光客増加や地域経済の活性化に大きく貢献した一方で、環境問題や文化遺産の保全問題など、新たな課題も発生している。

平泉町では、これらの課題に対処するため、様々な取り組みを行っており、今後も平泉の文化遺産を次世代に継承していくための努力が続けられている。

6. 平泉を訪れる際のおすすめスポット

要約

中尊寺

中尊寺は、平泉を代表する寺院であり、奥州藤原氏の初代清衡によって建立された。国宝の金色堂は、藤原氏の霊廟であり、堂内外の全面に金箔を張り、柱や須弥壇には蒔絵、螺鈿、彫金をふんだんに使った華麗な装飾がほどこされている。

金色堂は、阿弥陀如来を中心に多くの仏像を安置し、須弥壇内部には清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体や泰衡の首級が納められている。

中尊寺は、金色堂以外にも、重要文化財の経蔵や、大池伽藍跡など、見どころが満載である。

中尊寺の見どころ
見どころ 説明
金色堂 藤原氏の霊廟。堂内外の全面に金箔を張り、華麗な装飾が施されている。
経蔵 重要文化財の写経群を納めていた建造物。
大池伽藍跡 中尊寺の伽藍跡。

毛越寺

毛越寺は、奥州藤原氏二代基衡が建立した寺院であり、現在は、当時の本堂は残っていないが、浄土式庭園が残されている。

毛越寺庭園は、国の特別名勝に指定されており、平安時代の様式をそのまま残すもので、特に遣水の遺構は平安時代の様式を伝える唯一のものであり、その規模の大きさとともに特筆されている。

毛越寺では、毎年1月20日に行われる「延年の舞」という重要無形民俗文化財の祭事が行われている。

毛越寺の見どころ
見どころ 説明
浄土庭園 平安時代の様式を伝える、遣水の遺構が特徴。
常行堂 江戸中期に再建された堂宇。

観自在王院跡

観自在王院跡は、奥州藤原氏二代基衡の妻によって建立された寺院の跡である。現在は、建物は残っていないが、発掘調査によって、当時の姿を偲ばせる庭園が復元されている。

観自在王院跡の庭園は、毛越寺庭園に比べ、優美ではあるものの簡素な意匠であることが指摘されている。

現在も基衡の妻の命日である5月4日には、その死を悼んで始まったという「哭き祭り」(なきまつり)という祭事が行われている。

観自在王院跡の見どころ
見どころ 説明
庭園 発掘調査によって復元された庭園。

まとめ

平泉を訪れる際には、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山など、世界遺産に登録されている5つの資産を巡ってみよう。

中尊寺の金色堂は、平泉を代表する建造物であり、その華麗な姿は必見である。毛越寺庭園は、平安時代の様式を伝える貴重な遺構であり、その美しい景観は心を癒してくれる。

観自在王院跡は、藤原氏二代基衡の妻によって建立された寺院の跡であり、現在は庭園のみが復元されている。無量光院跡は、藤原氏三代秀衡が建立した寺院であり、宇治の平等院鳳凰堂を模して建てられたとされる。

金鶏山は、平泉の空間設計において重要な役割を担った山であり、山頂からは平泉の街並みを一望できる。

参考文献

平泉 – Wikipedia

平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び 考古学的遺跡群 …

世界遺産 平泉 │ ひらいずみナビ

PDF 平泉 ―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び 考古学的遺跡

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