項目 | 内容 |
---|---|
位置 | ミャンマーのエーヤワディー川流域 |
時代 | 紀元前2世紀~紀元9世紀 |
文化 | 仏教、ヒンドゥー教、ナッ信仰 |
建築 | 城壁、仏塔、寺院、僧院 |
出土品 | 骨壷、銀貨、碑文、仏像、神像 |
登録基準 | (ii)(iii)(iv) |
登録年 | 2014年 |
1. ピュー古代都市群の歴史
ピュー族の起源と名称
ピュー族は、かつてミャンマーのエーヤワディー川流域に居住していた民族集団です。彼らの歴史は古く、紀元前2世紀から紀元9世紀にかけて栄えていました。ピューは、漢文史料の「驃」「剽」などの表記、ビルマ語のピュー(Pyu)に由来する呼称です。古くはPruと発音され、『ハンリン・タマイン(由来記)』には「微笑む」を意味するPrunに由来すると記されています。自称は古モン語の「ティルチュル(tircul、突羅成)」です。
ピュー族は、エーヤワディー川流域に7つの城郭都市を建設しました。これらの都市は、タイェーキッタヤー(シュリークシェートラ)、テーゴウン、ベイッタノー(ベイタノウ)、ワディー、マインモー、ハリン(ハリンジー)、ダガウンなどです。これらの都市は、10世紀以前に建設され、それぞれ独自の文化と特徴を持っていました。
これらの都市遺跡は、エーヤワディー中流域にほぼ一直線に並んでおり、最南端のタイェーキッタヤーが最も新しい都市です。最古の都市は、1-2世紀から3-4世紀にかけて存続していたベイッタノーです。しかし、一部にはベイッタノーをピューの城郭都市と見なすことに疑問を投げかける意見もあります。
エーヤワディー流域以外に、下ビルマの海岸地帯でもピューの城郭都市と同じ特徴を持つ遺跡が多く発見されています。これらの発見は、ピュー族がエーヤワディー川流域だけでなく、より広範囲にわたって勢力を拡大していたことを示唆しています。
呼称 | 由来 |
---|---|
ピュー | 漢文史料の「驃」「剽」やビルマ語 |
Pru | 古くの発音 |
Prun | 『ハンリン・タマイン』に記された「微笑む」を意味する言葉 |
ティルチュル | 自称、古モン語 |
ピュー族の歴史と文化
ピュー族の言語は完全に解読されておらず、歴史や社会の研究の大部分は考古学的発見と他民族が記した史料に依拠しています。しかし、中国の史料から、3世紀にはピューの存在が知られていたことが示唆されています。
『華陽国志』南中志永昌郡条では、後漢時代の永昌郡に「僄越」が居住していたことが述べられており、これが最も古い時代のピューについて記録した文献だと考えられています。また、『隋書』ではピューは「朱江」と記され、真臘と交流を持っていたことが伝えられています。
『新唐書』では、ピューの支配範囲について、東は陸真臘、西は東天竺、東南はドヴァーラヴァティー王国に接し、南は海に面していると述べられています。これは、シッタン川以東を除いたエーヤワディー流域一帯がピューの勢力下に置かれていたことを示しています。
7世紀に入ると、ピェー(プローム)付近に存在したシュリークシェートラが大勢力となっていました。シュリークシェートラは、7つのピューの城郭都市の中で最大の都市であり、中国の僧である玄奘と義浄の著書には「室利差呾羅」「室利察呾羅」という名前で現れます。
都市名 | 位置 | 備考 |
---|---|---|
タイェーキッタヤー | エーヤワディー川中流域 | 最南端、最も新しい都市 |
テーゴウン | エーヤワディー川流域 | – |
ベイッタノー | エーヤワディー川流域 | 最古の都市 |
ワディー | エーヤワディー川流域 | – |
マインモー | エーヤワディー川流域 | – |
ハリン | エーヤワディー川流域 | – |
ダガウン | エーヤワディー川流域 | – |
ピュー族の衰退と滅亡
7世紀半ばから、ピュー族の都市は雲南の南詔からの攻撃を受けるようになります。南詔が唐の徳宗に帰順した後、ピューの王・雍羌も唐への帰属を望むようになります。雍羌は南詔王・異牟尋の助言に従って王族を唐に派遣し、楽人・楽器を献上しました。
中国の詩人・白居易は802年に来訪したピューの使者が音楽と舞踏を披露する様子を見聞し、漢詩『驃國楽』を詠んでいます。しかし、808年/09年に南詔の王は「ピューの君主」を称し、上ビルマは南詔の収奪に晒されるようになります。
832年に、ピューの都市は南詔によって破壊され、3
その後のピューの動向に関する記録は確認されておらず、エーヤワディー流域では9世紀半ばから11世紀のパガン王アノーヤターの即位に至るまでの、200年近い空白の時代が生まれます。
時代 | 出来事 |
---|---|
7世紀半ば | 雲南の南詔からの攻撃 |
802年 | ピューの使者が唐に音楽と舞踏を披露 |
808年/09年 | 南詔の王が「ピューの君主」を称し、上ビルマを収奪 |
832年 | 南詔によるピューの都市破壊、住民の連行 |
9世紀半ば | ピューの滅亡、エーヤワディー流域の空白時代 |
11世紀 | パガン王アノーヤターの即位 |
まとめ
ピュー族は、エーヤワディー川流域に独自の文化圏を築き、7つの城郭都市を建設しました。彼らは、インド文化の影響を受けながらも、独自の言語や文化を育みました。しかし、9世紀に南詔の攻撃を受け、滅亡しました。
ピュー族の滅亡後、エーヤワディー流域では200年近い空白の時代が生まれました。その後、パガン王朝が台頭し、ビルマの歴史の新たな章が始まります。
ピュー族の文化は、パガン王朝に継承され、ミャンマーの文化に大きな影響を与えました。特に、仏教建築や天文暦法は、後のミャンマー文化の基礎を築きました。
ピュー族の歴史は、ミャンマーの歴史を理解する上で重要な要素です。彼らの文化は、現代のミャンマー文化の根底に流れていると言えるでしょう。
2. ピュー遺跡の文化遺産価値
ピュー文化の多様性
ピュー族は、インド文化の影響を強く受けながらも、独自の文化を育みました。彼らの文化は、仏教、ヒンドゥー教、そして土着のナッ信仰が混在していました。
ピュー族は、ブラーフミー系文字に起源を持つ独自のピュー文字を使用していました。この文字は、碑文や仏像などに刻まれ、彼らの文化と歴史を伝える貴重な資料となっています。
ピュー族は、天文学や占星術にも精通していました。彼らは、独自の暦法を開発し、現代のビルマ暦の基礎を築きました。
ピュー族の音楽や舞踏は、後のパガン王朝にも継承され、ミャンマーの伝統芸能に大きな影響を与えました。
項目 | 内容 |
---|---|
宗教 | 仏教、ヒンドゥー教、ナッ信仰 |
言語 | 独自のピュー文字 |
天文学 | 独自の暦法 |
音楽 | 後のパガン王朝に継承 |
社会 | 城郭都市を中心とした社会 |
交易 | 旭日銀貨を介した交易 |
技術 | 灌漑システム、レンガ製造技術 |
ピュー遺跡の建築様式
ピュー族の城郭都市は、方形・円形・楕円形の城壁を持ち、城壁の直径は2-3kmほどです。最大の規模を有するタイェーキッタヤーは東西4km・南北5kmの城壁に囲まれています。
主な建材はレンガであり、石やラテライトはほとんど使用されていません。レンガの表面には指先や棒で平行する2-3本の直線や曲線、あるいは対角線を描いた指描痕が見られます。
ピュー族は、仏塔(ストゥーパ)などの仏教建築を多く建立しました。都市の中心部には城砦の跡と思われる建築物が位置するほか、城壁の内外に仏塔、僧院の跡が残ります。
タイェーキッタヤーの城壁外の南西に建つボーボージー(バウバウジー)仏塔は高さ47m・円周80mで、後世に建てられる仏塔と異なり、細やかな装飾は施されていません。
項目 | 内容 |
---|---|
城壁 | 方形、円形、楕円形 |
建材 | レンガ |
特徴 | 指描痕 |
仏塔 | ボーボージー仏塔など |
寺院 | ベーベー寺院、パヤータウン寺院など |
住居 | 木造の瓦葺き |
ピュー遺跡の出土品
ピューの城郭都市の遺跡からは、火葬した人骨を納めた骨壷、旭日銀貨、碑文が出土しています。黒地の玉に白地の鋸歯紋や網目紋を書いた飾り玉も出土しており、ビルマ北西部に居住するチン族が同種のビーズを使用しているため、それらの飾り玉はチン・ビーズと呼ばれています。
菩薩像やヒンドゥー神の像も出土しており、上座仏教、大乗仏教、ヒンドゥー教がピューの間で信仰されていたと考えられています。タイェーキッタヤーからは弥勒菩薩と観音菩薩を脇侍とする釈迦牟尼像、ガルダに乗ったヴィシュヌ、梵天、シヴァとラクシュミーの像が出土しています。
タイェーキッタヤーから出土したブロンズ像は丸みのある顔、高い鼻、つりあがった長い眉、短躯ながらも量感のある全身に特徴があります。また、仏像や神像以外に楽人や舞踏家の像も出土しています。
サガイン西50kmのミンムー付近、ピョーボェー東8kmのベインナカ一帯、エーヤワディー西岸のミンブーからザグーにかけての地域で、ピューの城郭都市の出土品と同様のものが集中的に発見されています。
種類 | 内容 |
---|---|
骨壷 | 火葬した人骨を納めたもの |
銀貨 | 旭日銀貨 |
碑文 | ピュー文字で書かれたもの |
飾り玉 | チン・ビーズ |
仏像 | 釈迦牟尼像、菩薩像 |
神像 | ヴィシュヌ、梵天、シヴァなど |
その他 | 楽人や舞踏家の像 |
まとめ
ピュー遺跡は、独自の文化と建築様式、そして宗教信仰を反映した貴重な文化遺産です。出土品は、ピュー族の生活様式や信仰、そして交易の様子を物語っています。
ピュー遺跡は、東南アジアにおける初期の仏教伝来や文化交流の例証であり、城郭都市の技術史上の意義を示す重要な文化遺産です。
ピュー遺跡は、ミャンマーの歴史と文化を理解する上で重要な役割を果たしています。彼らの文化は、後のパガン王朝や現代のミャンマー文化に大きな影響を与えました。
ピュー遺跡は、ミャンマーの豊かな歴史と文化を伝える貴重な遺産であり、世界遺産に登録されたことは、その価値を世界的に認められたことを意味します。
3. 世界遺産への登録経緯
登録への道のり
ピューの城郭都市は、2014年の第38回世界遺産委員会で、3件が「ピュー古代都市群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)リストに登録されました。
構成資産は、ハリン (Halin
世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議からは、価値の証明の不十分さなどを理由とする「登録延期」勧告が出されていたものの、委員会審議で逆転登録を果たしました。
ミャンマーにとって初の世界遺産リスト登録物件であり、これにより同国は161番目の世界遺産保有国となりました。
年 | 出来事 |
---|---|
2014年 | 世界遺産に登録 |
2014年 | 国際記念物遺跡会議から登録延期勧告 |
2014年 | 委員会審議で逆転登録 |
2014年 | ミャンマー初の世界遺産登録 |
登録基準
ピュー古代都市群は、世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録されました。
(ii) – 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii) – 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv) – 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
基準 | 内容 |
---|---|
(ii) | 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。 |
(iii) | 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。 |
(iv) | 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。 |
登録名称
登録名称の日本語訳は「ピュー古代都市群」のほか、「ピュー族の古代都市群」、「ピュー王朝の古代都市群」などとするものもあります。
適用基準は、東南アジアにおける初期の仏教伝来をはじめとする文化交流の例証であることや、城郭都市の技術史上の意義などに対して適用されました。
ピュー古代都市群は、東南アジアにおける初期の仏教伝来や文化交流の例証であり、城郭都市の技術史上の意義を示す重要な文化遺産です。
ピュー古代都市群は、ミャンマーの歴史と文化を理解する上で重要な役割を果たしています。彼らの文化は、後のパガン王朝や現代のミャンマー文化に大きな影響を与えました。
日本語訳 | 備考 |
---|---|
ピュー古代都市群 | 最も一般的な名称 |
ピュー族の古代都市群 | – |
ピュー王朝の古代都市群 | – |
まとめ
ピュー古代都市群は、2014年に世界遺産に登録されました。これは、ミャンマーにとって初の世界遺産登録であり、世界的にその価値が認められたことを意味します。
ピュー古代都市群は、東南アジアにおける初期の仏教伝来や文化交流の例証であり、城郭都市の技術史上の意義を示す重要な文化遺産です。
ピュー古代都市群は、ミャンマーの歴史と文化を理解する上で重要な役割を果たしています。彼らの文化は、後のパガン王朝や現代のミャンマー文化に大きな影響を与えました。
ピュー古代都市群は、ミャンマーの豊かな歴史と文化を伝える貴重な遺産であり、世界遺産に登録されたことは、その価値を世界的に認められたことを意味します。
4. ピュー遺跡の発掘調査
発掘調査の歴史
ピュー遺跡の発掘調査は、19世紀後半から本格的に始まりました。初期の調査は、イギリス植民地時代の考古学者によって行われました。
20世紀に入ると、ミャンマーの考古学者も発掘調査に参加するようになり、ピュー遺跡に関する研究が本格化しました。
近年では、国際的な考古学チームによる共同調査が行われ、ピュー遺跡に関する新たな発見が相次いでいます。
発掘調査によって、ピュー族の文化や生活様式、そして交易の様子が明らかになってきました。
発掘調査の成果
発掘調査によって、ピュー族の城郭都市の構造や建築様式、そして都市計画などが明らかになりました。
また、出土品から、ピュー族の宗教信仰、生活様式、交易の様子などが明らかになりました。
発掘調査は、ピュー族の歴史と文化を理解する上で重要な役割を果たしています。
発掘調査によって、ピュー族の文化が後のパガン王朝や現代のミャンマー文化に大きな影響を与えたことが明らかになりました。
今後の課題
ピュー遺跡の発掘調査は、まだ始まったばかりです。今後の調査によって、さらに多くの発見が期待されます。
発掘調査の成果を基に、ピュー族の歴史と文化をより深く理解することが重要です。
発掘調査の成果を広く公開し、世界中の人々にピュー族の歴史と文化を伝えることが重要です。
ピュー遺跡の保存と保護を図り、後世に伝えることが重要です。
まとめ
ピュー遺跡の発掘調査は、ピュー族の歴史と文化を解き明かす重要な役割を果たしています。
発掘調査によって、ピュー族の文化が後のパガン王朝や現代のミャンマー文化に大きな影響を与えたことが明らかになりました。
今後の発掘調査によって、さらに多くの発見が期待されます。
ピュー遺跡の保存と保護を図り、後世に伝えることが重要です。
5. ピュー古代都市群の観光スポット
シュリークシェートラ
シュリークシェートラは、ピュー族の城郭都市の中でも最も有名で、アクセスしやすい場所です。ヤンゴンから車で約5時間、鉄道で約8時間30分かかります。
シュリークシェートラは、かつてピュー族の王朝タイエーキッタヤーの首都があった場所であり、今でもミャンマーの河川水運の大事な拠点として栄えています。
シュリークシェートラは、3つの遺跡群の中で最も古く、考古学研究所が拠点を構えていることから修復や展示もしっかりと行われています。
歴史保護地区となっている一帯には城壁やお寺が残されており、一番の見どころは「ボーボージーパゴダ」です。全長46mにもおよぶ巨大な釣り鐘のような独特の形をした立派なお寺です。
項目 | 内容 |
---|---|
アクセス | ヤンゴンから車で約5時間、鉄道で約8時間30分 |
特徴 | 最も古く、考古学研究所が拠点を構えている |
見どころ | ボーボージーパゴダ、博物館 |
その他 | タイエーキッタヤーの首都があった場所 |
ベイッタノー
ベイッタノーは、シュリークシェートラから車で約3時間北上した街です。ベイターノの近くにはネピードー空港がありますが、3つの遺跡の中では最もアクセスが不便です。
ベイッタノーは、シュリークシェートラ以前に栄え、紀元前2世紀から紀元後7世紀頃までピュー王国の中心だったと言われています。
ベイッタノーでは、王宮跡や王族の住む家の跡などを見ることができ、博物館も建設されています。
敷地内には牛や羊が放牧されており、のどかな風景が広がっています。
項目 | 内容 |
---|---|
アクセス | シュリークシェートラから車で約3時間 |
特徴 | シュリークシェートラ以前に栄えた、王宮跡や王族の住む家の跡がある |
見どころ | 博物館 |
その他 | アクセスが不便、自然のまま朽ちた遺跡が見られる |
ハリン
ハリンは、およそ2世紀頃に作られた古代ピュー王国の要塞都市です。ハリンはヤンゴンからかなり離れており、ヤンゴンからはマンダレー空港を経由して車で2時間程です。
最寄りの町ウェットレットまでは、マンダレーから鉄道でも行くことができます。
ハリンは、歴史保護地区にある遺跡の中に村が存在していて、古くからのお寺が残っているのはもちろんのこと、歴史ある温泉も入浴施設として利用されており、生活の中に遺跡が残された街です。
3つの遺跡の中で最も情報が少ない場所ではありますが、お墓なども見ることができます。
項目 | 内容 |
---|---|
アクセス | ヤンゴンからマンダレー空港を経由して車で2時間 |
特徴 | 生活の中に遺跡が残された街 |
見どころ | お寺、温泉 |
その他 | アクセスが不便、情報が少ない |
まとめ
ピュー古代都市群は、それぞれ異なる特徴を持つ観光スポットです。シュリークシェートラは、アクセスしやすく、歴史保護地区として整備されています。
ベイッタノーは、シュリークシェートラよりもアクセスが不便ですが、自然のまま朽ちた遺跡を見ることができ、考古学的な価値が高いです。
ハリンは、最もアクセスが不便ですが、生活の中に遺跡が残された独特な雰囲気を持つ場所です。
ピュー古代都市群を訪れる際には、それぞれの都市の特徴を理解し、自分に合った観光プランを立てましょう。
6. ピュー遺跡の保存活動
遺跡の保護と修復
ピュー遺跡は、長い年月を経て風化や損傷が進んでいます。そのため、遺跡の保護と修復が重要な課題となっています。
ミャンマー政府は、ピュー遺跡の保護と修復のために、様々な取り組みを行っています。
考古学研究所が、遺跡の発掘調査や修復作業を行っています。
また、遺跡周辺の環境整備や観光客向けの施設整備なども行われています。
国際的な協力
ピュー遺跡の保護と修復には、国際的な協力が不可欠です。
ユネスコや国際的なNGOなどが、資金や技術支援を行っています。
国際的な協力によって、ピュー遺跡の保護と修復がより効果的に進められています。
国際的な協力は、ピュー遺跡の保護と修復だけでなく、ミャンマーの文化遺産の保護と修復にも貢献しています。
観光客の役割
観光客は、ピュー遺跡を訪れる際に、遺跡の保護に配慮することが重要です。
遺跡に触れたり、ゴミを捨てたりしないようにしましょう。
遺跡の保護に関するルールを守り、マナーを守って見学しましょう。
観光客の行動は、遺跡の保存に大きな影響を与えます。
まとめ
ピュー遺跡の保存活動は、ミャンマー政府、国際機関、そして観光客の協力によって行われています。
ピュー遺跡は、ミャンマーの貴重な文化遺産であり、後世に伝えるために、保護と修復を継続していく必要があります。
観光客は、遺跡の保護に配慮し、マナーを守って見学することで、保存活動に貢献することができます。
ピュー遺跡は、ミャンマーの歴史と文化を伝える貴重な遺産であり、世界遺産に登録されたことは、その価値を世界的に認められたことを意味します。
参考文献
・ミャンマー初の世界遺産!城壁に囲まれて栄えたピュー族の …
・ピュー古代都市群 | アジア, ミャンマー | 世界遺産ガイド
・ミャンマーの世界遺産2選!バガンとピュー族の古代都市群をご …
・ミャンマーの世界遺産「ピュー古代都市群」とは?世界遺産 …
・ピュー族の古代都市群 | ミャンマー | 世界遺産オンラインガイド
・ピュー古代都市群(ピューこだいとしぐん)とは? 意味や使い方 …
・【ピューとバガン】新世界遺産登録で大注目!神秘の仏教国 …
・ピュー – 世界遺産 – わかりやすく解説 Weblio辞書
・ミャンマーの世界遺産(バガンとピュー族の古代都市群) | お …
・ミャンマー、ミャンマー初の世界文化遺産!「ピュー王朝の …