構成資産名 | 登録ID | 登録面積 | 所在地 | 概要 |
---|---|---|---|---|
クンタ・キンテ島 | 761-001 | 0.35 ha | ロウアー・ニウミ地区 | ガンビア川河口から30kmの位置に浮かぶ小島。かつてはジェームズ島と呼ばれ、奴隷貿易の拠点として重要な役割を果たした。 |
六連砲台 | 761-002 | 0.17 ha | バンジュール | 1821年に建設された砲台。奴隷貿易廃止後の密貿易を取り締まるために使用された。 |
バレン要塞 | 761-003 | 6.3 ha | アッパー・ニウミ地区 | 六連砲台の欠点を補うために1827年に建設された要塞。ガンビア川の航行をイギリスが掌握することに貢献した。 |
サン・ドミンゴの遺跡群 | 761-004 | 0.723 ha | アルブレダ | 15世紀にポルトガル人が交易のために建てた建造物群の跡。ヨーロッパ人が築いたガンビア川流域の建造物としては最古の部類に属する。 |
ポルトガル人の礼拝堂の遺構群 | 761-005 | 0.006 ha | アルブレダ | 15世紀後半にポルトガル人によって建造されたと考えられている礼拝堂の遺跡。 |
CFAOの社屋 | 761-006 | 0.03 ha | アルブレダ | フランス西アフリカ会社の店舗兼住居の廃墟。19世紀中ごろにフランス人が建てたとされている。 |
モーレル兄弟の商館 | 761-007 | 0.0191 ha | ジュフレ | 19世紀初頭にレバノン系商人モーレル兄弟が買い取り、商館として使った建物。現在は博物館となっている。 |
1. クンタキンテ島の歴史と文化
15世紀のポルトガル人による交易
15世紀、ポルトガルはイスラム商人やヴェネツィアの商人を介さずに、大西洋を渡って直接アジアや西アフリカの物資を得ようとしました。ベルデ岬(1444年)、シエラレオネ(1460年)、エルミナ(1471年)と、徐々に到達範囲を広げていき、1446年から1456年の間にガンビア川沿岸に到達しました。当初は、現地の有力者の許可を得て交易拠点が築かれ、金、象牙、香辛料などとヨーロッパの加工品の交換が行われました。ポルトガルのエンリケ航海王子によって派遣されたアルヴィーゼ・ダ・カダモストは、1456年にガンビア川を遡上し、地元の小王国の首長バッティマンサと一種の友好条約を結び、交易を行いました。アルブレダ村とその周辺に残るサン・ドミンゴの小集落やポルトガル人の礼拝堂といった遺跡群は、この頃に築かれたものです。しかし、その後、ポルトガル人の入植は減退していきました。カダモストらがガンビア川に積極的に繰り出したのは、そこに多くの黄金が存在していると聞いていたためですが、苛酷な環境の割には大した量の黄金が手に入らなかったためです。
時期 | 内容 |
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15世紀半ば | ポルトガル人がガンビア川沿岸に到達し、交易拠点(サン・ドミンゴの小集落、ポルトガル人の礼拝堂)を築く。 |
15世紀後半 | 黄金が期待されたほど得られなかったため、ポルトガル人の入植は減退していく。 |
16世紀以降の奴隷貿易
西インド諸島や南北アメリカ大陸でのプランテーション経営の拡大などを受けて、黒人奴隷を商品とする大西洋奴隷貿易が行われるようになり、16世紀後半にはイギリス人の貿易商会もガンビアに進出しました。セネガル川からガンビア川にかけてのセネガンビア地方は大西洋奴隷貿易の初期において、特に重要な奴隷供給地となりました。ガンビア川は外洋船でも上流へ300km以上遡上できる川であり、内陸部の交易部族であったジャハンケ人との交流にも活用されました。ジャハンケ人は象牙のほかに奴隷も扱っており、16世紀には、ジョロフ王国やマリ帝国の崩壊にともなう民族対立などから、捕虜として奴隷にされる人々がおり、数多くの奴隷が輸出されました。
時期 | 内容 |
---|---|
16世紀後半 | 西インド諸島や南北アメリカ大陸でのプランテーション経営の拡大に伴い、大西洋奴隷貿易が活発化。イギリス人の貿易商会もガンビアに進出。 |
16世紀 | ジョロフ王国やマリ帝国の崩壊による民族対立などから、捕虜として奴隷にされる人々が多数発生。 |
ジェームズ島(クンタ・キンテ島)の成立
ガンビア川における奴隷貿易の主要な拠点はジェームズ島(現クンタ・キンテ島)であり、1651年に要塞が築かれました。1661年からはイギリスがジェームズ島を支配し、以降、フランスなどとたびたび領有権を巡って争いました。1660年にはイギリスで王立アフリカ企業会社が設立され、奴隷貿易を取り仕切りました。この独占は1672年の王立アフリカ会社に引き継がれ、自由化された1698年以降は他の商人たちも奴隷貿易に参入しました。しかしながら、セネガンビアからの奴隷の輸出は世紀ごとに減っていき、18世紀にはアフリカ全体の3%を占める程度に過ぎなくなりました。この島から送り出された黒人奴隷は3世紀の間で300万人に及んだともいわれるが、現在のガンビア領内から連れて行かれた奴隷の正確な数は不明です。
時期 | 内容 |
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1651年 | クールラント公国がジェームズ島(現クンタ・キンテ島)に要塞を築く。 |
1661年~ | イギリスがジェームズ島を支配し、フランスなどと領有権を巡って争う。 |
1807年 | イギリスで奴隷貿易が廃止される。 |
まとめ
クンタ・キンテ島は、15世紀から18世紀にかけて、ポルトガル、クールラント公国、オランダ、イギリスなど、ヨーロッパ諸国の支配を受け、奴隷貿易の拠点として重要な役割を果たしてきました。特に、17世紀後半から18世紀にかけては、イギリスが支配し、大西洋奴隷貿易の中心地として、多くの黒人奴隷がアメリカ大陸に送られました。
2. 関連遺跡群の特徴と意義
六連砲台とバレン要塞
イギリスは1807年に奴隷貿易の廃止を決め、ガンビア川流域でも違法な貿易を厳しく監視するようになりました。この決定に対しては、貿易商人のみでなく、奴隷を商品としていた現地の首長にも反発する者がおり、彼らによって取締りが妨害されることもありました。現在の首都であるバンジュール(旧バサースト)は、1816年に違法な奴隷貿易を監視するための拠点として建設されました。その都市に設置された六連砲台や対岸のバレン要塞は、密貿易の取り締まりに使われ、成果を挙げました。六連砲台は、24ポンド砲を6門備えた砲台で、現在も議事堂の敷地内に残っていますが、許可なく近づくことは認められていません。バレン要塞は、六連砲台の欠点を補うために建設された要塞で、バンジュールの対岸に位置しています。イギリスの軍人チャールズ・バレンは、バラの王ブルンガイ・ソンコと交渉し、1826年にガンビア川北岸沿い1マイルを譲り受けることに成功し、1827年に要塞を竣工しました。六連砲台とバレン要塞は、ガンビア川の交易をイギリスが掌握することに貢献しましたが、1870年に放棄されました。
施設名 | 建設時期 | 目的 |
---|---|---|
六連砲台 | 1821年 | 奴隷貿易廃止後の密貿易を取り締まるため |
バレン要塞 | 1827年 | 六連砲台の欠点を補うため |
サン・ドミンゴの遺跡群とポルトガル人の礼拝堂
サン・ドミンゴの遺跡群は、15世紀にポルトガル人が交易のために建てた建造物群の跡です。アルブレダから約1km東方に位置し、ヨーロッパ人が築いたガンビア川流域の建造物としては最古の部類に属します。もともとは拠点として住居、教会、井戸、墓地などを備えた小集落を形成していたようですが、現在残っているのは住居跡と推測される壁と床の遺跡のみです。床には抜け道が確認され、当時のポルトガル人たちの用心深さをうかがわせます。また、考古学的な調査によっても、当時の集落の姿がいくらか復元されています。サン・ドミンゴの小集落は、かつてはクンタ・キンテ島の真水の供給源などとして重要な位置を占めていました。ポルトガル人の礼拝堂の遺構群はアルブレダにある遺跡で、アルブレダは、ロウアー・ニウミ地区に属するマンディンゴ人が暮らす村落で、この村自体が緩衝地域に指定されています。アルブレダにはポルトガル、フランスなど領有国が転々とした結果残された遺構が複数現存し、17世紀後半にフランス人が建てた奴隷貿易の拠点の廃墟なども残りますが、世界遺産に登録されているのはポルトガル人の礼拝堂とCFAOの社屋のみです。
施設名 | 建設時期 | 目的 |
---|---|---|
サン・ドミンゴの遺跡群 | 15世紀 | ポルトガル人の交易拠点 |
ポルトガル人の礼拝堂の遺構群 | 15世紀後半 | ポルトガル人による宗教活動 |
CFAOの社屋とモーレル兄弟の商館
CFAOの社屋はフランス西アフリカ会社の店舗兼住居の廃墟で、アルブレダの川辺にあるレンガと石を使った2階建ての建物です。かつては1階部分が店舗、2階部分が社員の住居となっていました。アルブレダは、クンタ・キンテ島の対岸にフランス人が築いた交易拠点が元になっており、1814年から1857年にはガンビア川流域の唯一のフランス領として、重要な貿易拠点となっていました。モーレル兄弟の商館は、ジュフレにある建物で、ジュフレも隣接するアルブレダと同じくマンディンゴ人が暮らす村ですが、かつては奴隷狩りが行われた土地でもあります。『ルーツ』で知られるクンタ・キンテもこの村の出身とされ、キンテ家の末裔は21世紀初頭の時点でもジュフレで暮らしています。また、クンタ・キンテの生家も復元されており、『ルーツ』の大ヒット後に観光客が多く訪れるようになりました。ガンビア政府はアルブレダとともに、ジュフレも村そのものを緩衝地域と位置付けていました。このジュフレで唯一世界遺産に登録されているのが、モーレル兄弟の商館(Warehouse)です。もともとは1840年頃にイギリス人が建てたものですが、のちにレバノン系商人モーレル兄弟が買い取り、商館として使いました。モーレル兄弟の商館は、1996年に修復された後、小さな博物館になっています。この博物館はセネガンビア地方における大西洋奴隷貿易に関する展示を行なっており、関連する記録文書や写真、絵画、道具などが陳列されています。
施設名 | 建設時期 | 目的 |
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CFAOの社屋 | 19世紀中ごろ | フランス西アフリカ会社の店舗兼住居 |
モーレル兄弟の商館 | 19世紀初頭 | レバノン系商人モーレル兄弟による商館 |
まとめ
クンタ・キンテ島と関連遺跡群は、奴隷貿易の歴史を伝えるだけでなく、ヨーロッパとアフリカの交流の歴史、植民地支配の痕跡、そして奴隷貿易廃止後の社会変容を伝える重要な場所です。六連砲台とバレン要塞は、奴隷貿易の違法化後の取り締まり拠点として建設され、イギリスの植民地支配の強化を示しています。サン・ドミンゴの遺跡群とポルトガル人の礼拝堂は、ヨーロッパ人が最初にガンビア川流域に進出した頃の交易の様子を伝えています。CFAOの社屋は、フランスがイギリス領となった後も貿易目的でガンビアに影響力を持っていたことを示しています。モーレル兄弟の商館は、奴隷貿易廃止後の西アフリカにおけるレバノン系商人の活躍を伝える貴重な遺構です。
3. ルーツツーリズムとしてのクンタキンテ島
『ルーツ』の影響
ガンビア一帯が経験してきた奴隷貿易は、アフリカ系アメリカ人作家アレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』と、それを原作とするテレビドラマによって広く知られるところとなりました。ヘイリーの先祖とされるクンタ・キンテもまた、ジェームズ島からアメリカ大陸に送られた黒人奴隷でした。この小説とドラマ以来、奴隷として世界に離散した人々の子孫が自らのルーツ探しのために、クンタ・キンテの出身地とされるジュフレや、クンタ・キンテ島などを訪れることが増えました。
クンタ・キンテ島へのアクセス
クンタ・キンテ島への行き方は日本語で調べてもあまり出てこないのが実情です。しかし、ガンビア人なら誰でも知っているクンタキンテ島なので、ガンビアに行きさえすればその辺に人に尋ねたら一瞬で教えてくれます。大きく分けて2パターンあります。1つは、首都バンジュールからフェリーが出ている方法です。しかし、これは微妙に遠いかつ値段も高いので却下です。もう1つは、港町バッラからタクシーで行く方法です。バッラからクンタキンテ島へボートが出ているアルブレダという村へはタクシーで30分ほどです。バスも100円弱の安さで出ていますが、片道しかないので注意が必要です。クンタキンテ島ではタクシーも拾えず、帰りのバスが翌日なんてイベントが発生します。往復でタクシーを利用しましょう。交渉次第ですが往復で2000円ほどが目安で、クンタキンテ島観光中も待っていてくれます。
アクセス方法 | 概要 |
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バンジュールからフェリー | 遠くて値段が高いので却下 |
バッラからタクシー | アルブレダ村まで約30分。交渉次第で往復2000円ほど。 |
クンタ・キンテ島観光
クンタ・キンテ島では、入村料、入島料、ボート料、ガイド料とやたら細かく支払い箇所が分けられています。これらに加え、レストランも「島から戻った頃に準備できてるから先に注文しといて!」と半強制です。クンタ・キンテ島は、本気出したら1分で全部回れるくらい死ぬほど小さいです。というか水面の上昇により縮んでいってる状態です。ガイドさん曰く、50年後には完全消滅、ユネスコ世界遺産にも関わらず政府は汚職のせいでクンタ・キンテ島保護に全くお金をかけていないそうです。
項目 | 内容 |
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入村料 | 村の入り口で徴収される。 |
入島料 | 島への上陸時に徴収される。 |
ボート料 | 村から島への移動に必要。 |
ガイド料 | 島内を案内してもらうために必要。 |
レストラン | 島から戻った頃に準備できているので、事前に注文が必要。 |
まとめ
クンタ・キンテ島は、小説『ルーツ』によって世界的に有名になり、多くの観光客が訪れるようになりました。しかし、島は小さく、観光客の増加によって環境への影響も懸念されています。また、政府による保護が十分でないため、将来的には消滅する可能性もあります。
4. 世界遺産への登録プロセスと価値
登録までの道のり
ガンビア当局は1995年に、「ジェームズ島とアルブレダ / ジュフレ / サン・ドミンゴ歴史地域」という名称で世界遺産に推薦しましたが、世界遺産委員会の諮問機関であるICOMOSは翌年、西アフリカにおける植民地化以前の交易の様子を伝える文化遺産に関する比較研究の不足などを理由に、「登録延期」を勧告しました。この結果、1996年の第20回世界遺産委員会(ユカタン州メリダ)での登録は果たされませんでした。ガンビア政府は世界遺産基金から管理計画策定や推薦書準備のために総額7万USDの援助も受けつつ、すでに世界遺産に登録されていたゴレ島やヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群などと比較研究を行い、資産名を「ジェームズ島と関連遺跡群」と改めた推薦書を2001年に再提出しました。
時期 | 内容 |
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1995年 | ガンビア当局が「ジェームズ島とアルブレダ / ジュフレ / サン・ドミンゴ歴史地域」として推薦。 |
1996年 | ICOMOSが登録延期を勧告。 |
2001年 | ガンビア政府が資産名を「ジェームズ島と関連遺跡群」と改めた推薦書を再提出。 |
2003年 | ICOMOSが登録を勧告。世界遺産委員会で登録が実現。 |
登録基準
ICOMOSは、奴隷貿易に関してその拠点となった遺跡だけでなく、それが違法となった際の取り締まり拠点も含まれるのは、奴隷貿易の諸段階を伝える遺跡として独特なものと評価し、「登録」を勧告しました。ガンビア政府は基準(4)と(6)に当てはまるとして推薦していましたが、ICOMOSはそうした理由はむしろ基準(3)に適合するものであるとして、基準(3)と(6)での登録を勧告しました。世界遺産委員会でもそれが踏襲されたため、最終的に基準(3)と(6)で登録されました。
基準 | 内容 |
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基準(3) | ヨーロッパとアフリカの交流の変遷を物語る建造物群であること。 |
基準(6) | 奴隷貿易の開始と帰結とに直接的かつ明白に関わっており、アフリカン・ディアスポラについての記憶をとどめていること。 |
登録後の状況
2003年、ガンビアでは初の世界遺産として登録されました。これは、同じ年に初登録を果たしたスーダン、モンゴル、カザフスタンとともに、世界遺産条約を批准していながら登録資産を持っていなかった状態から脱することができたことを意味します。
まとめ
クンタ・キンテ島と関連遺跡群は、1996年に登録延期となり、2001年に再提出された推薦書が2003年に登録されました。登録基準は、ヨーロッパとアフリカの交流の変遷を物語る建造物群であること、奴隷貿易の開始と帰結とに直接的かつ明白に関わっており、アフリカン・ディアスポラについての記憶をとどめていることなどが評価されました。
5. クンタキンテ島が伝える人類の歴史
奴隷貿易の悲劇
クンタ・キンテ島は、大西洋奴隷貿易の悲劇を象徴する場所です。17世紀から19世紀にかけて、この島から何百万人もの黒人奴隷がアメリカ大陸に送られました。彼らは、家族や故郷を奪われ、過酷な労働と差別の中で生きていかなければなりませんでした。クンタ・キンテ島に残る要塞や奴隷収容所の遺構は、当時の悲惨な状況を物語っています。
ヨーロッパとアフリカの交流
クンタ・キンテ島は、ヨーロッパとアフリカの交流の歴史を伝える場所でもあります。ポルトガル人による交易、クールラント公国、オランダ、イギリスによる支配、そして奴隷貿易の廃止と植民地支配の強化など、様々な歴史が刻まれています。クンタ・キンテ島と関連遺跡群は、ヨーロッパとアフリカの複雑な関係を理解する上で重要な場所です。
人類の記憶
クンタ・キンテ島は、人類の歴史における奴隷貿易という暗い側面を私たちに思い出させてくれます。この島は、過去に起きた悲劇を忘れずに、人種差別や不平等のない世界を目指していくことの大切さを教えてくれます。
まとめ
クンタ・キンテ島は、奴隷貿易の悲劇、ヨーロッパとアフリカの交流の歴史、そして人類の記憶を伝える重要な場所です。この島を訪れることで、私たちは過去の歴史を学び、未来に向けて何をすべきかを考えることができます。
6. 今後の保存と観光への展望
保存への課題
クンタ・キンテ島は、水面の上昇により縮小しており、将来的には消滅する可能性があります。また、政府による保護が十分でないため、遺跡の劣化も懸念されています。観光客の増加による環境への影響も無視できません。
課題 | 内容 |
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水面上昇 | 島の縮小、将来的には消滅の可能性。 |
政府による保護不足 | 遺跡の劣化が懸念される。 |
観光客増加 | 環境への影響が懸念される。 |
観光のあり方
クンタ・キンテ島は、歴史的意義の深い場所ですが、観光客の増加によって、遺跡の劣化や環境への影響が懸念されています。観光客は、遺跡を尊重し、環境に配慮した行動を心がける必要があります。また、観光客は、クンタ・キンテ島の歴史や文化を学び、奴隷貿易の悲劇を理解することで、より深い旅になるでしょう。
未来への継承
クンタ・キンテ島は、過去の歴史を語り継ぎ、未来への教訓となる場所です。この島を保存し、観光客にその歴史を伝えることで、人種差別や不平等のない世界を目指していくことができます。
まとめ
クンタ・キンテ島は、歴史的意義の深い場所であり、世界遺産として保存していく必要があります。観光客は、遺跡を尊重し、環境に配慮した行動を心がけることで、この貴重な場所を未来へ継承していくことができます。
参考文献
・クンタ・キンテ島と関連遺跡群 – UNESCO World Heritage Centre
・奴隷貿易の歴史が残るガンビアの世界遺産「クンタ・キンテ島 …
・クンタ・キンテ島と関連遺跡群 – クンタ・キンテ島と関連遺跡 …
・ガンビアの世界遺産「クンタ・キンテ島(ジェームズ島)と …
・世界遺産の基礎知識 No.3 – 定義 – 世界遺産 | SEKAI ISAN …
・『クンタ・キンテ島(世界遺産)とガンビアのビザ』by 軟弱系 …